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−日本大学−
実は工業高校に進んだのもエンジニアになりたい(意外!?)という思いがあったからで、大学も工業系の大学を考えていた。が、インターハイで惨敗し、もう一度挑戦したいという思いが強く、当時、陸上の大学ナンバー1であった日本大学に進むことにした。周りが強い環境の中で棒高跳びをしたいと思ったからで、ここでもひとつの出会いがあった。それは、三宅正記さん。ひとつ上の先輩で、同じ大学ながら最高のライバルでした。お互い、かなりの負けず嫌いで、4年間本当にいい勝負ができたと思う。しかし、三宅さんのベスト記録は5m50cm、自分は5m41cmなので、一生言われそうだ(笑)。他の大学は分からないが、日大は多くの選手が日本のトップで活躍していた。だから気を抜いたら、試合に出られない状況であったから、練習を妥協するということは、一度もなかった。今考えても、よく練習した。
−決断−
大学4年になり、日大の主将となった。大学というのは、まとめ役がマネージャーで、主将は分かりやすく言うと、どっとかまえているような感じ。しかし、それだけに責任はある。最後のインカレで主将として、個人で優勝を決めて、総合優勝を決めたかった。しかし、結果は2位だった。その時の優勝者が小林史明。しかも、優勝を決めた5m30cmの跳躍は、背面跳びのような、ナメた跳躍。そのシーズン、こばやんは絶好調だったから、そんな跳躍でも跳んできた。大学で棒高跳びをやめるつもりだったが、日本一になれなかったことで、社会人になっても続ける決意をした。
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大学卒業後に競技を続けるというのは、ある意味決断のいることだと思う。陸上で生活をしていくのは、長距離以外の種目では、実業団では厳しい状況だからだ。しかし、本当にやろうと思えば、仕事に関係なく続けることはできる。現に、さとる(安田)も教師をしながら日本のトップで戦っている。陸上で生活ができる選手はほんの一握りで、ほとんどの選手は仕事と競技を両立させながら続けている。どちらがいいとは、言えないが、オレは仕事をしながら自分で時間を作り、競技している選手のほうが強いと思う。しかし、活躍した分だけ生活ができるという単純な世界になって欲しい。ちなみに、大学でのベストは5m31cm。
−挑戦−
卒業後は、三英社という実業団に入った。この企業は、全日本実業団でも総合優勝するほどのチームだった。しかし、1年でこの会社を退社し、未知の地である高知県に移り住むことになった。理由はいろいろあるが、最大の理由は、自分の力でどこまでできるか挑戦してみたかった、ということ。高知県は、棒高跳びが未開の地であり、なにもない状況で自分の可能性を試したいというのが一番だった。いろんな意味で戦った。
−日本一−
高知に来て1年目に生涯ベストの5m41cmを跳び、その年の日本選手権で優勝することができた。日本一になりたいという気持ちで棒高跳びを続けてきたが、ここで目標は叶った。しかし、目標を達成すると、また上の目標へ・・・次第に夢へと・・・。この日本選手権で競技に対する考え方などなど、自分は変わっていったと思う。当然、いい意味で。しかし、自分が言うのもなんやけど、日本選手権で勝つのは本当に難しい。特に棒高跳びという競技は、調子がいいから勝てるというものではなく、様々な要因が影響する。なので、今年の日本選手権を日本新記録で勝った大地は素晴らしいと思う。
−日の丸−
何度か日の丸(日本代表)をつけて試合に出場した。大学3年のときに、初めてインドネシアでおこなわれた国際試合に出場した。初めて日の丸をつけたとき、「身震いした」のを覚えている。日の丸の重みをその時はすごく感じた。98年におこなわれた福岡でのアジア選手権は、三宅さんとこばやんとオレの三人で出場した。最悪の環境だった。横風、向かい風、突風など・・・三人の中で三番目の試技で、三人とも5m20cmからスタート。オレが最後の試技で、二人とも記録なし、追い詰められたオレ達(チーム日本)だったが、3本目になんとかクリアーして3位に入り、地元日本での面目をなんとか保った。帰りのバスは、大渋滞にはまり、高速道路もノロノロ運転。ホテルは目の前・・・。外人さんは、スゴイ。バスの窓から飛び降り、高速道路を勝手に歩いて帰っていった・・・。
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