vol.43  17年の棒高跳び

 今回のNow!は、静岡国体で引退した私(鈴木)が棒高跳びについて話します。

−きっかけ−
 きっとみんなも同じだと思う。どうして、棒高跳びを始めたか。
「かっこいい!」
という単純なきっかけだと思う。地元静岡は棒高跳びがとても盛んで、見る機会が多かった。が、出身の浜北市(北浜中学校)では、それほど盛んでもなく、ちょうど中学2年の頃に、うちの学校でも棒高跳びを始めようかという動きがあり、きっかけが重なり棒高跳びをすることになった。それまでは、走り高跳びをしていた(大した記録はないが)。当時の中学校は、それほど強くもなく顧問の先生も棒高跳びの指導は初めてだったと思う。だから、ある意味見よう見真似で。
 初めて出た試合が確か2m70cmだったと思う。試合会場に行って初めてアップライトを知った。そして、中学3年では3m40cmを跳んだ。今では、中学生の女子が3m70cmを跳ぶくらいだから、この記録では県大会はおろか、地区大会でも入賞は無理やった。当時全日中の標準記録が3m90cmで、「こんなもんどうやって跳ぶんだ!?」って思った。

※アップライト:バーをかけるためのスタンドの位置を動かすことができ、ボックス(ポールをさすところ)から−40〜+80まで移動できる。ポールの硬さ、風、などなどその日の状況によって、移動する距離を変える。実はこれが重要で、技術よりも経験がものをいう。

−基本−
 高校は、当時棒高跳びが強かった浜松工業高校に進んだ。知る人ぞ知る、当時中学記録を(4m70cm)出した松川伸治さん(この人は、棒高界ではいろんな意味で伝説の男だった。その辺は、こばが詳しい)が二つ先輩にいた。高校時代はとにかく基本をした。みんな跳んでいるのに、オレはすみっこで基本ばかり、跳ばせてくれなかった・・・。無茶な練習、無茶な事をたくさん言われたが、一緒に練習していた、ひとつ上の大石長仁(浜松北−筑波大)さんにある意味助けられたかも。いろんな意味で成長した高校時代だった。
 1年で3m80cm、2年で4m60cm、3年で5m00cmまで記録を伸ばすことができた。きっとこの地獄の基本練習が実を結んだ。そういえば、高2の新人戦の帰りに、高速道路でポールを落として粉々になった。今となっては笑い話だがこれは相当ショックを受けた・・・。そして、高3の地元静岡インターハイ。その前の試合で5m00cmを跳び、当日も絶好調で「間違いなく優勝できる!」という思いがあった。が、途中で風が変わり、マットを変えた・・・。そしたらなぜか走れなくて、そのうちガチガチに緊張し初めて・・・4m70cmで8位に終わった。


−日本大学−
 実は工業高校に進んだのもエンジニアになりたい(意外!?)という思いがあったからで、大学も工業系の大学を考えていた。が、インターハイで惨敗し、もう一度挑戦したいという思いが強く、当時、陸上の大学ナンバー1であった日本大学に進むことにした。周りが強い環境の中で棒高跳びをしたいと思ったからで、ここでもひとつの出会いがあった。それは、三宅正記さん。ひとつ上の先輩で、同じ大学ながら最高のライバルでした。お互い、かなりの負けず嫌いで、4年間本当にいい勝負ができたと思う。しかし、三宅さんのベスト記録は5m50cm、自分は5m41cmなので、一生言われそうだ(笑)。他の大学は分からないが、日大は多くの選手が日本のトップで活躍していた。だから気を抜いたら、試合に出られない状況であったから、練習を妥協するということは、一度もなかった。今考えても、よく練習した。

−決断−
 大学4年になり、日大の主将となった。大学というのは、まとめ役がマネージャーで、主将は分かりやすく言うと、どっとかまえているような感じ。しかし、それだけに責任はある。最後のインカレで主将として、個人で優勝を決めて、総合優勝を決めたかった。しかし、結果は2位だった。その時の優勝者が小林史明。しかも、優勝を決めた5m30cmの跳躍は、背面跳びのような、ナメた跳躍。そのシーズン、こばやんは絶好調だったから、そんな跳躍でも跳んできた。大学で棒高跳びをやめるつもりだったが、日本一になれなかったことで、社会人になっても続ける決意をした。

 大学卒業後に競技を続けるというのは、ある意味決断のいることだと思う。陸上で生活をしていくのは、長距離以外の種目では、実業団では厳しい状況だからだ。しかし、本当にやろうと思えば、仕事に関係なく続けることはできる。現に、さとる(安田)も教師をしながら日本のトップで戦っている。陸上で生活ができる選手はほんの一握りで、ほとんどの選手は仕事と競技を両立させながら続けている。どちらがいいとは、言えないが、オレは仕事をしながら自分で時間を作り、競技している選手のほうが強いと思う。しかし、活躍した分だけ生活ができるという単純な世界になって欲しい。ちなみに、大学でのベストは5m31cm。

−挑戦−
 卒業後は、三英社という実業団に入った。この企業は、全日本実業団でも総合優勝するほどのチームだった。しかし、1年でこの会社を退社し、未知の地である高知県に移り住むことになった。理由はいろいろあるが、最大の理由は、自分の力でどこまでできるか挑戦してみたかった、ということ。高知県は、棒高跳びが未開の地であり、なにもない状況で自分の可能性を試したいというのが一番だった。いろんな意味で戦った。

−日本一−
 
高知に来て1年目に生涯ベストの5m41cmを跳び、その年の日本選手権で優勝することができた。日本一になりたいという気持ちで棒高跳びを続けてきたが、ここで目標は叶った。しかし、目標を達成すると、また上の目標へ・・・次第に夢へと・・・。この日本選手権で競技に対する考え方などなど、自分は変わっていったと思う。当然、いい意味で。しかし、自分が言うのもなんやけど、日本選手権で勝つのは本当に難しい。特に棒高跳びという競技は、調子がいいから勝てるというものではなく、様々な要因が影響する。なので、今年の日本選手権を日本新記録で勝った大地は素晴らしいと思う。

−日の丸−
 
何度か日の丸(日本代表)をつけて試合に出場した。大学3年のときに、初めてインドネシアでおこなわれた国際試合に出場した。初めて日の丸をつけたとき、「身震いした」のを覚えている。日の丸の重みをその時はすごく感じた。98年におこなわれた福岡でのアジア選手権は、三宅さんとこばやんとオレの三人で出場した。最悪の環境だった。横風、向かい風、突風など・・・三人の中で三番目の試技で、三人とも5m20cmからスタート。オレが最後の試技で、二人とも記録なし、追い詰められたオレ達(チーム日本)だったが、3本目になんとかクリアーして3位に入り、地元日本での面目をなんとか保った。帰りのバスは、大渋滞にはまり、高速道路もノロノロ運転。ホテルは目の前・・・。外人さんは、スゴイ。バスの窓から飛び降り、高速道路を勝手に歩いて帰っていった・・・。


−海外−
 何度か海外に行った。が、一番印象に残っているのは、台湾合宿だ。Now!でも紹介したように、なぜかチーム棒高は台湾合宿に行く。当時行った先は、台湾でも田舎で交通ルールがあってないような際どいところだった。贅沢な話ですが、食が合わず・・・匂いが合わず・・・、合宿2日目にオレが倒れ(熱)、次は、次は・・・で結局11人中8人が倒れた(熱、吐き気、などなど)。なので、近くのデッカイスーパーに行き、日本食を買いあさり、みんなで作って食べることにした。でも、一番の栄養はキュウイフルーツやった。ビタミンとりまくった。人生の厳しさを知った。※でも、いいとこです台湾は・・・。

−出会い−
多くの仲間に出会ってきたが、特に感謝している4人について書きたいと思う。

−安田覚−
 “抜群に安定した跳躍”。日本で一番勝率が高いんちゃうかな。静岡国体、アップ場での覚はいつもと目が違っていた。他のみんなには悪いけど、覚しか敵に思えなかった。だから、この日は試合が始まっても殆ど話すことなく、最高の勝負が出来たと思う。覚がいなかったら、5m35cmまで跳べなかった。最後の最後で最高の勝負ができたことを感謝している。数年前の事故から立ち直り、自己ベストを更新してくるところは、そうとうな努力があったはず。今回の国体も覚が勝って当たり前という見方が多かった。その中で勝つのは、本当に難しい。そこで勝てたのは、やっぱり本人の努力の賜物だと思う。若い選手も、覚の事故から復活した努力を見習ってもらいたい。そんな覚は、オレの二つ下にも関わらずタメ口。まぁ、マブダチだから許してあげる。ありがとう覚。

−澤野大地−
“ファイティングスピッツ”精神力が素晴らしい。今年の世界陸上を見た人なら分かるはず。大地は「インターハイで5m40cmを跳んだ」ということが最初の出会いというか、そのときの印象がとても強かった。「5m40cm跳ぶのに、オレは23年かかったのに、18年で跳びやがって!!」って思った。その後、日本大学に進学し、自分と同じ大学ということで、話す機会も多くなり、試合でも勝負するようになった。いつ頃やろうか!?仲良くなったのは。周囲の目は厳し(高校生で5m40cmを跳んだことで)かったと思うが、大学での苦労が今年実り、5m75cmの大記録を樹立した。しかし、(オレが言うのもなんやけど)技術的にもまだまだやと思うので、今後の記録更新は間違いない。最初に書いたように、大地は素晴らしい精神力をもっている。きっと夢の記録に届くはずだ。大地に出会えて、いろいろなことを感じ、学び、そして力をもらったように思う。ありがとう、また飲みに行こうねっ。

−近藤祐介−
 
“感謝”。祐介は、オレと一番長く棒高をした仲間で、よくここまでついて来てくれたと思う。オレが大学4年の時の1年で、全日中、高校(国体)、インカレと全てに優勝してきた男。よく考えるとspotナンバー1の競技歴でもある。そんな祐介が、高知に来て一緒に棒高をすることになったのは、ちょうど大学を卒業するときに、あてもなくさまよいそうになっていた祐介に高知で棒高しよぉぜぇ〜、と声をかけたのがはじまり。出身は香川県で高知から高速を使えば1時間ほどで帰れる距離だったので、そんなに違和感がなかったのかも。よく練習して、よく飲み、よく遊んだ。いろんな意味でオレのことを知っている人物で、感謝の言葉しか見当たらない。

−小林史明−
 
“理想”。こばは、オレの理想に一番近い跳躍スタイルかな。ずばり安定感はない(ごめんね)けど、まとまれば確実に記録は出る。何かをしてくれそうな、そんな期待を持たせてくれる跳躍が好きだ。こばはオレのひとつ下なんやけど、社会人になっても棒高を続けたのは、上に書いたように大学最後のインカレでこばに負けたからだ。だから、こばの存在は大きい。ライバルでありながら、プライベートでもあんなことや、こんなことまで、よく遊んで!?ますが、これからは応援したいと思います。今年は、いろんなことがあって、力を出せずに終わったけど、アテネは期待してるよ!


−引退−
 
いつの日からか、踏み切ることができなくなった。怖いわけではなく、自分の中で踏み切ることの感覚がズレてきて、修正することができなくなった。棒高選手にとっては、致命的だと感じるようになった。しかし、自分の中で試行錯誤してなんとか戦ってきたが、そんな葛藤が続く中で引退を考えるようになった。アマチュアなので、引退はないが、ケジメをつけたかったし、最後勝負して引退したいと考えた。そして、地元静岡での国体を最後の試合と決めた。引退を決める上で、大地の存在が大きかった。正直、大地には勝てないと思ったし、大地なら世界で戦えると思ったから、夢を大地にたくすつもりで。

−2003年静岡国体−
 
引退試合と決めた、静岡国体。1年がかりで調整した。結果がどうであれ、体、技術、メンタルなど全て国体に合わせた。勝負をして引退したかったので、今年はほとんど試合にも出ず、国体1本で臨んだ。そして、覚には勝てなかったが、5m35で2位となった。しかも今季日本ランキング4位で。覚のお陰で、最後の最後まで勝負ができたし、こんな長い時間試合をしたことがないくらい長時間の戦いで、本当に悔いなく棒高跳びを終えることができた。生涯最後の跳躍、5m45の3本目は、助走のときから頭の中が真っ白になり、何も見えなかった。

−Thanks!−
 
17年間我ながらよく続けてきたと思う。これは自分にとって、誇りに思う。しかし、ここま続けてこられたのも、たくさんの人に支えられ、たくさんの仲間に出会えたからで、本当に感謝しています。いままで本当にありがとうございました。棒高跳びに出会えたことを幸せに思います。これからも、spotを、そして棒高跳びを支えていきたいと思います。

鈴木秀司


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